昭和43年8月6日 朝の御理解

  御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」



しっかり信心の帯をせよと。しっかり信心の帯をしておきませんと、乞食になったり、盗人になったり致します。これは、あー、形の上で、物を盗ったり、いー、物乞いをしたりするのではなくて、心で盗む。心で物乞いをする。ね。神が見ておると仰るのは、そこなんです。私共の、いわば、心のなかまで見通しです。そこで私共は、ま、限りなく、美しゅうなろうと、こういうのはそれである。ね。心に、いわゆる、乞食根性、ね。泥棒根性があっては、美しくなれない。ね。だから、しっかり信心の帯をせよと。しっかり、いわゆる、信心の帯をしときませんと、間違いが起こります。火の気のないところに、煙は立たんと申します。ね。確かに、えー、お互いの、おー、生き方とあり方といったようなものにです、厳密に、いー、見ていきませんと、ね。いうなら、自分は泥棒しておらぬ。自分は乞食はしとらんから。神様が見てござるから。本当に私の腹の中を割って見せたいごと思う。というようなことを言うようになるんです。本当に、人間の腹を割って見てもろうたらどうだろう。それこそ、浅ましい限り。ね。泥棒根性が飛び出してくるだろう。乞食根性が飛び出してくるだろう。確かに、火の気のないところに煙は立たんと、ほんとに思わなければいけない。ね。まあ、例えて申しますと、まあ、今は、そんなことはございませんけれども、今は、筑水連合会というのが出来まして、甘木関係、久留米関係の教会が、相よって、毎月信心の共励を致しましたりしておるくらいですから、ありませんけれども、私共が、まあ、青年時代の時分はもう、甘木と言うたら、何とか一口言わなければおられない。久留米と見たら、また何とか一口言わなければおられない、というようにですね。何とはなしにその、おー、甘木は間違っておる。久留米は間違っておるといったようなことを、言い争いましたもんでしたですね。必ず討論になったんです。ね。私は、あるけれども、その時分に討論したというか、悪口を言い合ったという時に、素直にですね、私共が、あー、その相手が言うておる悪口を素直にですね、あのー、聞いて改めて行ったらですね、私は、現在の久留米のように、ヒレイが地に落ちるといったようなことはないと思うですね。なかったと思うです。現在では、甘木なんかは、隆々たるゴヒレイを頂いておられますけれども、ほんなら、初代がおられた、あの時分の隆々たるものとは、もう、似ても似つかないものです。ね。いつの間にかです、例えば、その当時、やはり、甘木あたりは、日本一を自他共に許しておった教会ですけれども、いつの間にかです、その日本一的なヒレイと言うものを、がです、ね。その座が、段々、変えられていきよることを、甘木自体が、もし知らないとするなら、まあだ、おら、泥棒じゃない、まあだ、おら、乞食じゃないと、言い張っているようなもんですよ。甘木、久留米も、ま、例に出しては失礼ですけれども、これは、合楽の場合だってそうです。合楽のことを人がとやこう言う。ま、それこそ、火の気のない事を言うもんだ。まるきりそんな事はない。課題は、悪口を言われた場合です。本当の合楽を知らんから、そげな事をいうという風に、例えば、私共が言うておるうちに、いつの間にかですね、例えば、まあ、合楽が占めておる座というものがです、段々、低下していく。ね。二十年、三十年経っていくうちにです。ね。私が、そこの座を追われてしまっておるようなことに、なりかねないとこう思うのですよね。ですから、そこんところを、本当に私共は、厳密に、はー、本当に、あの人が、ああ言うが、なるほど、自分はないと思うけれども、もうひとつ、深く、広くです、自分の内容というものを調べてみる必要があるということ。泥棒はしとらんから、乞食はしとらんから、神様は、ちゃんと見てござるから、神様が見てござるならです。それが、おかげになって行かにゃならんはずなんです。そうでしょうが。ところが、おかげになって行きよらんとするならばですよ。やっぱり、人が言うように、世間が言うように、自分の信心は、結局ほんなもんじゃないという事になるんです。ね。神様が、ほんなものとして認めてくださるなら、おかげが落ちる筈がない。ね。まあ、甘木、久留米を例に出しましたから、ま、甘木、久留米を例にとりますとですたい、久留米の信心は間違うとらん、間違うとらん、絶対、間違うとらん、と、言いながら、現在の、いわば、あの、衰微一途を辿っておるような状態が、どうでしょうか。ね。さあ、御本部参拝と言うて、小さい教会よりもお参りが少ない。ね。全然、若い者というのが、全然育っていない。青年会といやあ、ね。何十年前、青年会やった人達が、例えば、大祭の時、玉串を上げておる。全然、少年少女部会なんか、大体、この人達には、子供やら孫やら在るじゃろかと思うくらいに、全然陰もない。私は、悪口じゃないけれどもですね、私共がまた、そういう二の舞を踏んじゃならないと言う事だ。ね。間違ってないと、言い張る前にです、もう一遍、私共は、自分達の信心内容と、また、心の内容というものを確かめて見なければいけないと思います。ね。甘木のこと等は、私共は良く知りませんと、よく知りませんけれどもです、ただ、漠然と知っとるだけでも、ほんなら、十年前の、甘木、現在の甘木、間違うてない、間違うてないと言いながら、何とはなしに、さあ、昔のヒレイに、言うならば、なんと申しましょうかね、ね。夢よもう一度といったような、焦りを感じますですね、甘木あたりの信心には。
昨夜、壮年部会の時にも話をしたんですけれども、もう、ま、現在ここでは、甘木の信心が中心になっているようですが、もう、現在の金光教の信心ではね、甘木の信心ではおかげ頂かんと、私が、いわば、断言して話したことです。ね。もうほんとに、まあ、言うならば、ね。甘木、久留米に取って代わって合楽の信心が、ある意味においては、クローズアップされてくる時代が必ず来る。ね。そしてその、クローズアップされた時にです、ね。大きく写すか、そこにはです、必ずその、傷なり、汚れないが目だって来るのですよ。そこを指摘してくるわけですね。んにゃ、合楽の信者は間違いない。と、例えば言うてはならないと言う事なんです。これはね、合楽とか、甘木とか、久留米とかという大きな事を言わんでも、今度は、自分の信心でもそうですよ。ね。もう、これはもう、必ずあの、久留米の石井清さんが、壮年会の、壮年部会の時だけは来るんですよ、もう、必ず来るんです。夕べも、十二時ちょと過ぎまで、お話をしたんですけれども、最後に、清さん、最近あんたが、感じておること、信心を一つ、うー、ま、話せと私が申しましたら、話しておりました。あの人なりに、いー、確かに、あの素晴らしいと思うけれどもですね、ね。自分の信心は間違ってない、間違ってないという、言うておる間にです、あら、もう、こんなに勢いのない、小さいものになってしまっておるという事を、私は感じました。こういう事を言うんですよね。世の中にはね、えー、禍と福、いわゆる、かとは禍ですね。福は福岡県の福ですね。いわば、嬉しいこと、苦しいこととでも申しましょうか。これが、もう、必ず、半分づつあるんだと、世の中には。決して、良い事ばっかりじゃないのです。良い事が五つあるなら、悪い事が五つは必ずあるんだと。この頃、そこが分った。だから、よい事が起こって来たからと言うて、そうニコニコもしない。悪いことが起こってきたからと言うて、苦しい、悲しい顔もしない。清さん、素晴らしい。昔の、丁度、悟りを開いたぼんさんのごたるねと、私が申しました。ね。自分で、だから、慢心もしない、だから、卑屈にもならないというわけなんです。金光様のご信心はね。それではない。ね。めでためでたの若松様よ、枝も栄え、葉も茂るというではないか。生神金光大神は、家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃと、こう仰る。それでは、子孫繁盛にならない。それでは、めでた、めでたと言う事にはならない。一つの、悟りの境地というのはね、例えば、私が、よく例を出す、あの、羊羹の五合餡である。ある、世の中の、一つの心理というものを把握する。それを、小さく把握すれば小さいんです。ね。ある意味合いにおいての、天衣無縫のおかげが受けられる。けれどもそれは、ごく小さい。絶えず五合しかない。人が賄うものすらない。ただ、自分が、ただ、無理せんでもやっていけるというだけの事。ね。ただ、自分が、無理をせずにやっていけるというだけ、そのくらいな事で、いいだろうか。ね。誰も教導しない。誰も言うてくれる者がない。随分、清さん、そげなこっじゃいかんばい、そげなこっじゃいかんばいと、随分、真っ向から、色々と、皆が言うた。ね。壮年会のたんびに、秋永先生なんかはもう、もう、自分の身内にもなりますから、もう、それこそ、清そげなこっじゃいかんと言うて、もう、それこそ卓を叩いて言うたけれども、全然受け入れようとしないのです。ね。いうなら、陰では、清さんが、あげなこっだとこう、いうなら、まあ、いうならば、泥棒じゃ乞食じゃとこう、いわば、悪口を言うておってもです。自分な泥棒しとらんから、自分な乞食しとらんから、神様は見てござるからという、思いだったけれども、いつの間にか、あのようにと活かしておる。あのようにも、こじんまりとした所に、入り込んでしまっておる。なるほど、腹も立たんようになった、ばってん、喜びもしないという事になってきた。ね。この例なんかは、良い例だと、こう思うんです。ね。俺は間違っていないと言うておるうちにです。ね。しっかり、信心の帯をしておる時にはですね、それこそ、おー、子供に、いわば、悪口を言われても、ね。それを、ほんとに反省いたします。
私は、昨日、それこそ、はっとするほど、言うようなものを感じたんです。私共の、んー、三番目の、おー、息子が今、中学に通っております。もう、この人は非常に、無口です。先日その、小さいとばっかりが、信心の共励を、時々やるらしいんですね。今、高校の一年に行きよります娘と、中学生が二人おりますから、三人で、同じ自分の部屋で、信心の共励をしておる。それで、二番目の娘が、あの、聞き合わせたんですね。どういう事を言うておるかというとですね。その、お父さんがね、あのー、起きられた時、もう、本当にもう、そらもう、お父さんが起きられた時の顔を見ると、いわば、がっかりすると言うぎなもん、もう、ぶーっとしちゃる、いわゆる、その目覚めないに、目をですね、いうなら、まあ、こすりこすりの顔って、そう良いもんじゃない。自分でもそりゃ、必ず、自分方で、お広前に出てくる時には、一遍鏡を見てくるのです、私は必ず。ね。それでもですね、子供から、子供の目には、そういう風に映じとる。何気なしにその、もう、他のいろいろな話はそれから、愛子がその話をしてるんですよ。だから、僕は、もう、朝、目が覚めたなら、もう絶対、ニコニコして、ほら二階から下りてこうがち、そして、その、他の子供達に言いよるそうです。そういや、ほんなごて、もう、幹ちゃんが、ぶーっとしてた事がなかと言うてからその、ま、みんな話し合ってるんですよね、三人で。だから、お父さんの、もう、あれを見たら、俺はもう、がっかりすると言うて、その、お父さんに言いやきらん。おとなしい子ですから、言いやきらんのです。けれども、お父さんのそういう悪いところだけは、僕は受け継がんつもりだと。だから、目が覚めたなら、もう、必ずおら、ニコニコして二階から降りてくるとこういうのです。私はですね、ほんなごて、ほんなごて、虚を疲れた思いでしたです。はー、もう、ほんなごと、私は確かにそうだと。機嫌の悪い顔をして、ね。私は、ほんとにですね、信心の帯をしっかりとしとかんと、そういう風に、うてあわれんのですよ。ね。同時に、昔から言われておる言葉で、私は、その事はどういう意味か良く知りません。「おかげ泥棒」と言う言葉があります。ですから、そう言う事も聞いた事はありませんけどね、「おかげ乞食」と言う事もいえると思うですね。これは、昔の信者さん方がよく使った言葉です。おかげ泥棒にならんごつしとかにゃ。言うならば、おかげ乞食にならんごとしとかにゃんと。そういう意味でならもう、本当に、今の、金光教の信者の中にゃ、おかげ乞食が、お、ほとんどじゃなかろうかと、私は思いますね。そういう、引き当ても持たずにですね、引き当ても持たずに、おかげ下さい、おかげ下さいと言いよるなら、こらもう、もう、それこそ、もう、おかげ乞食ですよ。ね。もう、夕べ、秋永先生が、話しておりましたが、もう、ほんとに現在、経済の面では、まあ、当然といや当然ですけれども、様々な難儀が落ち着いた後ですから、もう、ほんとにあの、へとへと、もう、へとへとというところだと、文字通り。けれども、神様がね、もう、このような無理な事でも聞いて下さるんだと、度々に。もう、親先生に、二言、お願いがあるけれども、親先生はもう、その二言のお願いは出来んて、これ以上ご無理は申し上げられないと。自分の信心の引き当てというものを知ってるからですよ。ね。いわゆる、おかげ乞食に成り果ててはならんと思うからです。それでもね、それでも、神様はおかげ下さっておる。最近、確信される事はです、それは、私が、二十年前に、いわば、私の一番貧乏時代に、みんなに私が公言して言うておったようにです、私がおかげ頂かん筈はなかて。私がおかげ頂かんなら、もう金光さんの信心な間違うとる。金光様の教祖様のおっしゃることは、あら嘘ついてある。というふうに私は、言いよりましたです。だから、その当時の私の信心を知っておる人は、ほんなこと、大坪さん、あーたがおかげ頂かんはずはなかと、まあ、お世辞じゃない、ほんとに言うて下さっておったと自分で思うんですよ。その事をですね、そういう意味のことを、昨日、言われるから、私はもう、ほんとに有難いと思うた。最近、ようやく私がおかげ頂かん筈はない、と言うものが心のそこから湧いてくるようになりましたと、こう言う。ね。こういう、有難い、日々を、積み重ねていきよるのだから、私が、おかげ頂かんはずはないと。ね。神様がね、これはもう、十年も前の、秋永先生が、お届けする事を覚えておりますが、今、神様がおかげを下さると言うてもですね、ちょっと神様待って下さいと、私は言うだろうというようなことを言ってます。ね。自分に受けもの、自分に信心の引き当てもないのにです、貰うたんではですね、いわば、おかげ乞食になるのだと。ね。形だけでもです、ね。引き当てが出けて、それ方のおかげを力を欲しいと、こう、言うのである。その力をですね、頂こうとせずしてから、おかげばっかり、頂こう、頂こうとするなら、もう、まさしくおかげ乞食ですよ。いいや、そげん言うたっちゃ、信心な、毎日、私はお参りしよる。お参りしよるとが引き当てじゃないて。ね。どれだけその、信心を分らせてもらおうと、意欲しておるかと言う事なんです。ね。私は、おかげ泥棒と言う事は、どう言う事か良く知らんけれどもです、ね、私が、どういう事を言うかというと、やはり、おかげの、ただ取りをしとるというような事じゃなかろうかと、こう思うのです。貰うどころか、ただ取りしておる。
いま、ここに、御理解に出ておる言葉は、これだけですから、ね。もう、私は、そげん泥棒はしとらすと、ね、要するに、貰いさるいたこともなかけんで、いくら、乞食と言うたっちゃ、泥棒と言うたっちゃ、ね。神様が見てござるけんで、本当に、神様が見てござるならですね、必ず、顔を洗うて下さるのであり、必ず、言うならば、顔を立ててくださる、おかげを頂けれるはずなんです。ところが、神様が、顔を立ててくださらん、おかげを見せて下さらんとするならば、やはり、自分は、おかげ、おかげというか、泥棒である、乞食であるという自覚をですね、もって、そこんところを改めていくと。まあ、それを、甘木、久留米の信心を持って、私は聞いて頂いたんですけれどもね。いいや、甘木は間違うておらん。いいや、久留米の信心は絶対間違うておらん。と、言い張り、言い合っておるうちに、いつの間にかその、ヒレイの座から、落ちていきよる、私は甘木、久留米を見ます。ね。甘木が、だから、いわば、甘木じゃない、合楽がです。ね。そういう二の舞を踏んじゃならん。なるほど、間違いないところは間違いがないと、正は正として、正して進めていくと同時にです。ね。合楽の、例えば、非難があるということは、それだけ、合楽がクローズアップされて行きよる。ね。だから、もっと、もっと、大きく、クローズアップされてくるようになったら、もっと、汚れ、傷が見えて来るだろう。そしたらまた、非難がごうごうと、起こってくるかも知れない。そういう時にです、ね。素直に、それを低姿勢で、はー、ほんにそうでしょうね、そこを、ほんなら改めにゃいけませんというようなですね、態度で私共は、進んでいかなければ、合楽の信心は、いわゆる、完璧なものにして行くと言う事は、出来ない。私共は、どこまでもやはり、その完璧を願い、ね。どこまでも限りなく、美しゅうならせて頂くと言う事が、願いの根本なのですから、ね。私共の、心の中にです、ほんとに、根性の中に、乞食根性、泥棒根性が、ね。これはね、あの、話を致しますと、銘々の事になってまいりますとですね、それは本当に、まあ、愕然とするほどにですね、自分自身が改まらにゃならん事があると思うですよ。あの人は冷たいと、例えば、あの、定評のある人がですね、本当に冷たいなら、暖かくなろうという事を、本気で努めなきゃ駄目ですよ。ね。これが過ぎとるというなら、過ぎとるところを、本当に改めなければですね、それは、必ず、いわば、そのキズになってしまいますよ。人がですね、まあ、一生懸命こうやって、言うてくれとる時が有難い時です。私は、ほんとにあの、はー、あの人の信心は、もう素晴らしいと、ある程度のところまで言われながらです。そして、そこの信心のカラの中に入ってしまってです。ね。自分な間違いなかといったような、小さい殻の中に閉じこもっていってしまう人達を、本当に惜しいと思うです。ね。ですから、自分自身の信心をですね、自分の内容からも破っていく。ね。外からも、破ってもらう、私は、ね。言うなら、どうぞ、悪口を言うて下さいという訳なんです。ね。外から破ってもらう。同時に、自分の内容をです、自分で気がついて、自分の内容から、破って、新たな天地を、に出て行くというようなですね。その、えー、ね。私はね、あもう、あの男ばっかりは汚い。そういうふうな事を申しますよね。あもう、こすか。もう、こすかつは泥棒の始まりですよね、言うならば。だから、本当に自分に、そういう、泥棒はせんでも汚い心があるならですよ、ね。私は、本気で、その自分の汚いところをです、ね。本気で美しゅうならせて頂こうという、んー、願いを立てて、改まっていかなければいけんと思いますよね。それがです、一番最後になりますけれど、神がよく見ておると言う事なんです。神様が良く見てござるならばです、そう、いつまっで、ほうからかしてござる筈はなか。ちゃーんと、ここには、おかげの道が付いてこにゃならんはず。ね。五年経っても、十年経っても、おかげの道が付いてこないとするならばです。これは、人が言うように、こら、自分の内容に、そういうものがあるんだと、先ず、知ってですね、それこそ、火の気のないところに、煙は立たんという思いで、自分の心をいつもですね、顕微鏡で眺めるような気持ちで、一つおかげいただかないかんです。自分な、こげなところに、こげなものが、こびりついとった。気が付かなかった。ね。それを、本気で取り除いていくところのおかげを頂かなければならん。そういう、私は、あり方にならせて頂くと言う事がです。信心の帯をしっかりとしておると言う事じゃないでしょうかと、こう思いますですね。どうぞ。

中村良一
2005年4月24日